「おおかみこどもの雨と雪」感想


せっかく公開初日に観に行ったんだから、こういうのはその日のうちに感想を書くべきだよね。というわけで、細田守監督の長編アニメーション映画「おおかみこどもの雨と雪」の感想です。多少はネタバレを含むので、未見の方はそのつもりでどうぞ。この映画、自宅でテレビをつけてる時に自分はわりと日テレを見てることが多いので、ジブリ映画並のプッシュですごいなー、とか思ってた。声を当ててた若手有名俳優は当然として、監督自身もずいぶん姿が露出してた。昨晩は1つ前の監督作の「サマーウォーズ」も金曜ロードショーにかかったしね。
そんな流れで公開初日に銀座地域で唯一の上映館、TOHOシネマズ有楽町に朝イチで出向いたら、行列ができてて当日券は売り切れ……なわけはなく、お客さんはせいぜい3割の入り。昨夜からの雨天がたたったかな。カップルとファミリー客がそこそこ目についたのは制作側の狙い通りとして、夏休みに入ったばかりのハズの若い客層があまり見当たらなかった。なぜか目についたのは60代以上の高齢者の姿。このあたりの現象は銀座・有楽町という土地柄なのかもしれない。新宿や豊洲に行っていればまた違ったのかも。あと早い時間は若者はまだ寝てるしね。で、少し肩透かしをくらいつつも、とても良い席で視聴開始。この映画館、かなり古いはずだけど、最近椅子を入れ替えたのか座り心地も良い感じ。
最初に総括を述べておくと、これはけっして万人向けではない、わりと見る人を選ぶ映画。特にストーリー展開に難がある。ただし映像のクオリティは現代日本の商業アニメで考えうるトップレベル。セル調の2DアニメでCGを使うということの定義を根本から底上げしてしまった。何をしているかテクニカルな言い方をすると、背景美術をCGに起こすことで、映画のキーになるカットほぼ全てで背景動画を使うというそら恐ろしいことをやってしまっている。
これがピクサー映画みたいなフル3DCG映画であれば、手間はひどくかかるもののキャラも背景も全てに動きをつけることは可能だ(「ファインディング・ニモ」はかなりその辺意識して絵作りをしていた)。あるいはフレデリック・バックとかアレクサンドル・ペドロフのような人の、人物も背景も同じ調子の油彩画みたいな絵を何枚も送り描きして作るような、個人作家の作品でもこうした「動く絵画」みたいな映像は見ることができる。
2Dのセルアニメというのは、背景は書き割りの一枚絵を置くだけで、そこにペタっとした色分けがされたキャラが動いているという、かなり抽象化の進んだ表現手法だ。みんな見慣れてるからあまり気にしないけど、キャラが大変よく動いているようないわゆる「作画アニメ」でも、背景は一枚絵が置かれてカメラは固定されている(か上下左右へのパンしかしない)のが普通。あるいはカメラが奥行き方向に良く動いている場合は、背景は宇宙だったりイメージ的な色彩だけだったりとか。ごく稀にキャラや飛行機みたいな対象物と一緒に背景も動いているようなアニメがあるけど、それはキャラと同じレベルで背景物も一枚一枚動きをつけた作画をしているわけで、これはひどく手間がかかるのが通例(クレしんオトナ帝国のラスト近くで、しんのすけが鉄塔を駆け上がるシーンがそうだけど、このレベルのリアリティの作画でも背景動画は大変!)。
なんだかこういう話題になるとついつい熱くなってしまうのだけど、「おおかみこどもの雨と雪」はこの背景のオブジェクトを動かしたり、カメラ移動に伴い背景を動画として扱う自由度をイチから設計しなおしてる感がある。これは「時かけ」「サマウォ」と大ヒットを立て続けに飛ばしたからこそ、細田監督がやりたいことを十分にやれたということなんだろうなと思う。そういう意味では幸せな作品だ。眼福といっていい。冒頭の東京の市街地のゴミゴミとしていて活気があって人が多い感じも、これまでにないリアリティで感じられるし、なにより中盤以降の富山の辺鄙な小村の自然の描写が素晴らしい。草木が風に揺れるさま、タイトルにも入っているけど雨や雪の描写は実写以上に細密だ。それでもまだ若干の違和感が残っていたのが、川や滝のような水の流れる様の表現だったのだけれど、これもこれまでのアニメーションの、いかにもCGで描いた水を合成しました、というレベルは完全に脱却している。
そんなわけで、この作品が2012年の日本の劇場アニメの到達点の1つとして長く記憶されることでしょう、まる。で終わることが出来ればいいのだけど、そう単純には割り切れないモヤモヤが鑑賞後に残るw なんというかエンドロールが流れ始めても物語がスッキリ終わってないんだよね。その辺、「時かけ」や「サマウォ」はエンタメとして手堅い作りだっただけに、組んだ脚本家も同じなのになぜこうなってしまったのか。やはり細田監督の完全オリジナル原作というのが裏目に出ましたかね(「サマーウォーズ」も大筋は劇場版デジモンの焼き直しだから完全にオリジナルのストーリーではないよね)。
ストーリーのあらすじをごく粗く要約すると、狼男と恋に落ちた主人公が娘と息子を授かるけど、直後に夫狼は事故死して、女手ひとつで苦労して姉弟を育て上げる、というもの。夫が狼男だという点だけは普通じゃないけど、それ以外は身近にもいくらでもよくあるような話。というか、創作上の物語の中での家庭環境としては、片親だったり特殊な生まれだったりする(例えば父親がヤクザだったりとかする)のはむしろよくあるプロット。定番と言っていい。その定番を活かすためには、やはり定番の展開というものがあるのだけど、残念ながらこの映画ではそのあたりのお約束はほとんど拾い上げられていない。「狼」というファクターを除いてしまうと、まるでNHKの1時間もののドキュメンタリーでも見ているかのような出来事しか実は起きていない。
作中でも主人公が、“夫の狼男が死んでしまう前に彼がどのように生まれて育ってきたのかよく聞いておけばよかった”と、語るシーンが何度か出てくるのだが、その「夫狼の住んでいた世界」と「主人公が苦労して子育てをしている世界」を繋いで意味のあるものにする「未来の世界」がちゃんと提示されないのが、物語構造上の最大の欠陥と言っていい。主人公の子育てだけに焦点が絞られすぎていて、狼男の世界と人間の世界が十分には物語上で戦っていないから、最後に弟狼が自分の世界をつかんで親離れを果たしても、観客にはカタルシスが得られない。その弟狼の世界が、物語の中で期待されている「未来の世界」とは正しくリンクしていないからだ。
また、人間の世界で生きていくことを(おそらく)選択した、姉狼の未来の視点からの述懐のナレーションが時折挿入されて物語は進行するのだが、これも姉狼の心境が定まると思われる出来事のシーンまでは到達するものの、未来の世界にまで行き着くためには、過去の父狼の世界や弟狼の選択した世界との闘争が不可欠なのだが、このあたりもほとんど描かれていない。それを匂わせる出来事の描写はあるだけに、なにか構成上の都合があってプロットを削ったんじゃないかと思うくらいだ。
このあたり、個人的にかなり興味深いので、どうしたらこの作品がもっと観客の心に響くものになるのか、その為にはどのようにプロットを変更する必要があるか、そのあたり考えてから2回目を観に行きたいと思う。