日記もまた悪習か

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切込隊長が今日のBLOGのエントリーで、はからずも今の僕の気持ちに重なることを書いていた。

 生れ落ちたその日から、人は可能性という資源を少しづつ減らしながら暮らしているのだ。雲にかかった満月の下を散歩する夜も、ほかにこの作業をしていればいまごろ何かに追われることなどなかったはずだとしても、その散歩がまたひとつ何かを生み出したことの代償として消費され、一方で私は散歩するという選択を実施したことにより残る人生の何分の一かが持った可能性を失ったわけだ。
 同じようにいままさに経過している何分か、これによって生み出されたこの駄文によって、何人かの時間が潰されてこの社会はまた可能性を少し失うのである。いま君がマウスを持っている手が、スクロールをためらうその目が、もし別のことをしていたとしたら、君の人生はどう変わっていたことだろう。

文章のオチは現在禁煙中の隊長の逼迫した精神が書かせたレトリックだ、ということになっている。無為の象徴としての煙草にかけてるのか。息抜きこそが人生だという気もするけど、社会性の中で自分の存在が消えるまでになにか影響を与えたいなら、瞬間ごとに積み重ねていこう。