「おたく文化の危機」に納得させてくれ

新現実 Vol.2 (カドカワムック (178)) 新現実 Vol.3 (カドカワムック (199))
一昨日に書いた「萌え年表が欲しい」というエントリーに、モノグラフさんから反応していただけた様子。ちょっとづつ進めてますのでのんびりお待ちくださいませ。まずはこの件を考える契機となったササキバラ氏の論旨をもっと読み込もうと、「新現実」二号と三号の論考を読み返した。しかしこの雑誌、八ポイントくらいのフォントで四段組みのレイアウトって滅茶苦茶目が疲れる。読み進めるうち、二号の「傷つける性 団塊の世代からおたく世代へ―ギャルゲー的セクシャリティの起源」の一二四頁からの「おたくと戦後民主主義」の部分に引っかかった。この章の内容は「<美少女>の現代史」では踏み込まれなかった部分だ。そこまでの文章では「<美少女>の現代史」の下敷きとなった論考が先んじて論ぜられており、男性が女性を傷つける主体であるという暴力論から、美少女ゲームの受容に至る論旨はすんなり理解できた。ところが、この章の戦後民主主義憲法(ことに第九条)とそこに生きることを肯定する「おたくと戦後民主主義」の文脈は、紙幅の都合もあろうが飛躍を感じざるを得ない。文中で筆者は法治国家において私(わたくし)の暴力を公的なものに預けるということをことさら問題としている。その理由を戦後日本という国家の持つ暴力が機能不全を起こしていることと、性的なものに対する暴力性の自覚が「美少女」へと向かうことは結びついているからだと説明しているが、少し説得力が弱い気がする。もっとも、僕が年表を作らないと萌えのバックボーンが理解できないなーという欲求を感じていることと、どこかでつながっているのかなというシンパシーは感じた。以下ササキバラ氏の姿勢が現れている個所を引用する。

 私の倫理観は、どのようなもので作られているのか。どのようなものによって規定されているのか。それを自覚するには、私は私のセクシャリティにも向き合う必要がある。私たちは、なにに、どのように欲情してきたのか。そこから目をそむけるべきではない。少なくとも、おたくという嗜好を持ったまま大人となって社会に関わり、今自分自身がどのように生きようかと思いを巡らせる者にとって、それは避けられない問題のひとつだ。
(「新現実」第二号、一二五頁)

新現実」第三号の論考「おたくのロマンティシズムと転向―「視線化」する私」の暴力の行方」では、憲法第九条への言及がより踏み込まれた形で行われている。というか、ここでも僕は論旨が二つに分断されているように感じる。前半では前号の論考である「傷つける性の暴力意識」の内容を受け、それを受容するため「私」は視線化し異性という他者を内面化して攻略可能なキャラクター化する需要から「美少女」というイメージが生まれたという、「視線化する私」の論旨が語られている。「傷つける性の暴力意識」を感じる気持ちと「視線化する私」の欲望は一つの構造の中で繰り返されると筆者は言う。そして論考の後半では前半で語られた自らの暴力性の構造を、現代日本憲法第九条をめぐる暴力性の議論に敷衍している。やはりこのあたり飛躍があるように感じざるを得ないが、論旨そのものはなかなか魅力的である。

 九条が「達成しえないロマン」として受けとめられてきてしまったのと同様、おたく的なものは長い間、「達成しえないロマン」的な文脈の中で受容されてきた。
(中略)
 日本のテレビアニメの輝かしい時代のヒーローたちは、多くが、このような「戦争」と「平和」というリアリティを足がかりにすることで、活躍が可能になっている。ところが七〇年代に入ると、日本の世の中では戦争というリアリティが希薄化していく。
(中略)
 おたく世代が子供時代に受けとめていたヒーロー的なロマンは、七〇年代以降に、徐々に「達成しえないもの」や「嘘にしかならないもの」へ変貌していくのだ。憲法第九条もこのような時代の中で、六〇年代ヒーロー的ロマンの変化と同じように、「もはや達成しえないもの」として扱われるようになっていったように思われる。
(中略)
 そして、戦争という「悪」の現実が七〇年代に不明瞭化していくにしたがってヒーローの正義としての「平和」も不明瞭となり、作品の根拠も揺らいでいく。その「揺らぎ」が、自覚的に表現されたのが七〇〜八〇年代的なパロディだ。
(中略、島本和彦の「炎の転校生」を例にとって)
 「熱血」という、それこそ六〇年代までの高度経済成長期のド真ん中にあった価値観を八〇年代において表現しようとすると、それはもはやパロディにするしかない。そして、パロディという「解毒」作用を持った器の中だからこそ、改めて真摯に熱血を語ることが可能になる。そのような装置の中でこそ、ロマンは輝きを取り戻す。
(中略、パロディ表現の行き渡った現代に至って)
 しかし、パロディ空間と、現実の空間の境目が曖昧になり、相互に侵食し始めてしまったらどういうことになるだろうか? もし、シャレをシャレとわかってもらえずに、マジで受けとめられてしまったら、どういうことになるだろうか?
(中略)
 文脈の異なる世代が出現すると、そのようなパロディやシャレによって生み出された作品は、シャレという留保や、照れや、開き直りや、屈折や、悪意などが抜け落ち、単にベタな受け取り方をされる。さまざまな「折れ曲がり」が消え去り、まっすぐに受けとめられる。「達成しえないロマン」という折れ曲がりが脱落するのだ。
(「新現実」第三号より)

引用が長くなった。おたく文化と憲法第九条を同じ「達成しえないロマン」という文脈の中で捉えるという視点は面白い。平和憲法改憲が議論されている中、それに依拠してきたおたく文化もまた検分し、必要であればあらたな根拠を据えなおすべきだという主張も、その危機感は(おそらく筆者と僕の間の世代的なギャップによって)共有できないが伝わってくる。僕にとって読んでいて居心地が悪いのは、パロディやシャレとして発達した表現が、性的な視線への需要を満たすためのみに無自覚に再生産されているという結論へストンと落ちて「くれない」ことだ。自分の中の性的なものに対する暴力性の自覚が「美少女」へと向かい、「平和」というロマンの代わりに「愛」という個人的なロマンへ向けて肥大化していった先が「萌え」ということでは駄目なのだろうか。
ここでササキバラ氏が、萌えの果てに他者を必要とせず「美少女」イメージをハイテクで具現化した環境で閉じて生活してしまえる未来を憂えているというのならば、まだ理解できる。どうも問題としているのは、萌えに代表される現代のおたく文化が「現実とリンクしない」表現になりつつあることであるようだ。それがおたく文化の衰微につながるから問題なのか、ササキバラ氏の世代にとっておたく文化を楽しめなくなるから問題なのか、ササキバラ氏と同世代のおたくがおたく文化の文脈を破壊しつつある「転向」への警告なのか、僕にははっきりとは読み取れなかった。「萌え」やおたく的ロマンを楽しめなくなるかもしれないという危機感を、下の世代にも説得力をもって語ってくれる論考を物してくれることを望みたい。